思うつぼ
「ああ、またこんなところに来てしまった」
崖先に立っている青年は、ぼうっとした顔で言いました。
「ここで死んだら、やつらの思うつぼだ」
青年は崖からてちてち戻っていきました。
「きゃあ」
女の叫び声がしました。
男が女につかみかかって、息の根を止めようとしていました。女は抵抗して、一筋縄ではいかなさそうです。
ごっ。
女が草むらに倒れました。そして、ぴくりともしません。
その傍らにはバットを持った青年が突っ立っていました。
男は唖然としました。だってこういう時は襲われている方を、女を助けるものです。
「これ、君の車?」
「え、ああ、うん」
実際は女の車でしたが、男は適当に頷きました。
青年は運転席に乗りましたが、男が待ってほしいと頼みました。
男はバックドアを開け、そこから何箱かの段ボールを出しました。そのまま木陰に行って箱の中身を地面に広げました。
「何をしているの」
「庭の草や虫を持ってきたんだ。ここに帰そうと思って」
「ふうん」
男が虫を放したり草を植えたりしているのを、青年はじっと見ていました。
「これはなに」
「にわほこりって言うんだ。ふわふわしてて、庭の埃みたいだろ」
「ほんとうだ。かわいいね」
男の用事も終わって、青年が再び運転席に乗りました。男はそれをぼんやりと見ていました。
「乗りなよ」
青年が言いました。
「え。ああ、うん」
男は言われるままに車に乗りました。
ぶうんと車が走り出し、青年が話し始めました。
「丸目のかわいい車だね」
「ラシーンのタイプツーだよ。丸目はカスタムらしい」
「君の名前何ていうの」
「七郎」
「じゃあぼく六郎。よろしくね。ところであんなとこで何してたの」
「付きまとわれてて。殺してやろうかと。その後自分も死のうと」
「どう死ぬの。崖から落ちて?」
「そんなとこかな。でもあいつと同じところに落ちたくないから、別のとこ見つけて落ちたろうね」
「生きるのは大変?」
「まあ」
別に大変でもないよ。気持ちの問題だね。七郎はそう言って窓の外を眺めました。そして、乗り物にのって窓の外眺めるの、案外好きだからね。これだけでも、俺はいいんだから。とぽつりと言いました。
