涙は目を覆う程に溢れているのに、世界を覆う程に溢れているのに、乾いていくばかりでした永遠の1
無数の照明は一つ一つが弱々しくひかり、大きな空間を柔らかい肌色で満たしました。
柔肌を踏む影が落ち、スーツ姿の男が現れました。「学芸員 鈴木」と書かれたプラスチック製のプレートを胸に留め、裾をひらめかせて。
そのひらめきは彼が第一ボタンのみ留めていたからだけではなく、薄手のトロピカルウールの生地、消しゴムで撫でたような生地の擦れのきらめき、染め直されて生まれた濃紺から墨黒へのトーンの変化のすべてが合わさって呼吸を生み出しているのでした。
鈴木は一枚の絵の前で足を留めました。
障子のような形の、背丈の倍もある大きさの絵でした。格子状の木枠の上に一枚の紙が貼られていました。それは画家自らが漉いたボロボロの和紙で、一面黒いインクで満たされていました。
鈴木は絵に近付き画面を見つめると、均一に見えたインクの染みは一様ではなく、吸込みのむらが僅かに跡を残していました。
鈴木は苦笑いしました。この紙は執拗なまでにインクを飲まされたんだ。画家に醜く作られた為に均一に餌を吸い込めなかったから。しかし、飲みすぎて千切れる紙もいただろう。糊の水分で耐え切れなくなった奴もいただろう。そしてそれに耐え得て、やっと横たわれると思えば、幸せしか知らないような柔らかい光の圧迫に晒されている。
鈴木は軋む繊維から道を捉え、染み込んだインクの跡を辿りました。粗く纏められた繊維が土くずのようにざらつき、鈴木の瞼に足音を響かせました。
格子の間に生まれた膨らみは滑らかな上り坂を作り出し、紙面を歩く鈴木を丘の上へと登らせました。鈴木は顔を上げる代わりに数歩足を退き、丘の上の景色を見渡しました。古い地名を見付けどこの町か思い出そうとしましたが、ちらちら灯る窓明かりが静かに思い出を切り取りました。
落ちていく切れ端の輝きに目を凝らすと一面に煙が立ち込め、微細な煤は眼球を往来して削り、咽た瞼は瞬き煤を落としました。
目を開き残っていたのは燃え滓に残る小さな火で、それは起毛した繊維の淡い輝きでした。
インクの中で輝く星屑は散り散りの雲母となり、それぞれが呼吸し面を揺らし小さな波紋を無数に作りました。波紋は雨音を描いて、濡れ光るアスファルトを映しました。
雨音は激しさを増していく一方で、ぽたぽたと耳鳴りのように響く滴の音が迫り、やがてそれが音場を占め、耳鳴りばかりになりました。水滴はアスファルトに落ち、跡からぬるりと牛蛙の背が浮かびました。
蛙を浮かしたどす黒い液はミミズとなって膚から引き、路上に残された牛蛙の、瞳孔から飲み過ぎたインクがぼたぼたと溢れていました。その涙は目を覆う程に溢れているのに、世界を覆う程に溢れているのに、虹彩を描くばかりで自身を覆う湖となることはなく、乾いていくばかりでした。やがてインクは蛙に亀裂を作り、その割れ目から土が溢れて肉を割きました。
限界を超えた牛蛙は飛散しました。肉片が線路の錆に張り付く。
白い雨が全てをかき消します。しかし鈴木は霧の中にある蛙の姿を凝視しました。
轢き千切れた蛙の泥に汚れた内臓の鈍いろが、内臓の凹凸にそって流れていく雨粒が、鈴木の瞳にはっきりと映りました。
画面はざああっと幾何学模様に流れ、消炭に戻りました。